なぜあなたは映画を作るのですか?
ジャン=リュック・ゴダール インタビュー
2004年5月カンヌにて
聞き手:松浦 泉(+篠原弘子)
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『アワーミュージック』が扱っているのは非常に重いテーマですが、全体に漂っているのはこれまでにない優しさであり、和解の精神です。このコントラストはどこから来ているのでしょうか?
私たちが撮影の場所に選んだサラエヴォという街そのものが、厳しい現実を抱えながら陽気に生きている街なのです。この場所で撮影したことによって、重い題材を明るく、同時に静謐なスタイルで描くことができたと思います。すべてはあの場所から生まれました。あの街で生活している人々、そこに集まってくる作家たち……。映画の中で彼らには文学について語ってもらい、私自身は多少なりとも知っている映画のことを語りました。
自殺について考え続ける女性が主要人物の一人として登場しますね。
オルガのモデルはドストエフスキーの小説に出てくる虚無主義者です。彼女がカフェで語る言葉はすべて「悪霊」のキリーロフの言葉から取られています。これは後で思い当たったことですが、私は同じようにキリーロフから『中国女』の登場人物のひとりを創造したことがありました。その登場人物は映画の中でずっと神の存在や自殺の自由について自問し続けるんです。
オルガの自殺は最近の自爆テロを連想させずにはおきません。
もちろんそのことも考えました。中東だけでなく、たとえばスリランカの情勢のことも。最初の「地獄編」に首を斬られた若い女性の映像が出てきますが、あれもスリランカの映像です。このところ、新聞での自爆テロの報道を読んで、報道の仕方が間違っているとずっと思っていました。メディアは自爆テロを犯罪として扱っている。アムネスティ・インターナショナルも、人間性に対する犯罪とみなしている。私はそうは思わない。
ただ、作品の中で描くにあたっては、平和のためにわが身を捧げるギリシャ悲劇のエフゲニーのような、無償の犠牲にしたいと思いました。私自身も、よく自分に問いかけます。自分には自爆するテロリストと同じことができるのだろうかと。結論は、この映画のオルガと同じようなやり方だったら、きっとできるだろうということです。彼女の鞄には爆弾ではなく本が入っていて、でも状況から判断して人々はそれが爆弾だと思いこむ。そのリスクを追う気にはなれると思う。アガメムノンに従ったエフゲニーがリスクを負ったようにね。あるいは旧約聖書のイサクのように。誰もがかわいそうなイサクを無視してアブラハムのことばかり話すのですが、刃をつきつけられていたとき彼は何を考えていたのか、時々想像してみるんです。私が願うのは、自分を犠牲にするときに、自分と行動をともにしてくれる誰かがそこにいてくれることです。でも、映画を見てもわかるとおり、おそらく最後の時には誰も一緒にはいてくれないだろう、というのが私の推測なのですが。
私がイスラエル人だったら、きっとパレスチナ人と同じことをするでしょう。でも実際には彼らは、飛行機だの爆弾だので武装して、遠くからパレスチナ人を爆撃している。自爆するテロリストは操られているという人もいます。でも、実際にはもっと簡単なことではないでしょうか。9.11のテロリストもそうですが「もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる」と彼らは思っている。そこがオルガ、つまり私との違いです。もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる、というのが私の考え方です。ジャンヌ・ダルクもおそらく同じことを考えたはずです。映画の中でジャンヌ・ダルクの映像を引用したのはそれが理由です。
「映画監督は共同作業だから孤立することがない」とも、あるインタビューではおっしゃっていますが。
そう、自殺する映画監督は少ないですね。フランスでよく知られているのはジャン・ユスターシュくらいです。これはブレッソンが言っていることで、『愛の世紀』でも引用したのですが、「一度映画の中に入ってしまうと、もうそこから出ることはできない」。
この映画は『愛の世紀』から3年ぶりの作品になりますが、この間、世界のメディアはアメリカのことばかりを報道し続けてきました。一方、この作品にはアメリカへの直接的な言及はほとんどありません。
アメリカにわざわざ言及する必要はないんです。彼らはつねにそこにいるからです。アメリカは映画のプロコンシュル(ローマ時代の「属州総督」)として機能しています。古代に、ガリアやゲルマン民族を、カエサルが派遣した属州総督が統治していたように。今日では、世界で製作されるすべての映画はカエサルの影のもとにある。ロレンス・ダレルの「カエサルの永遠の影」という本をご存知ですか。このタイトルが示しているように、どのような方法で、そしてどこで撮影しようとも、我々はアメリカ=カエサルの影のもとにいるのです。そもそも今回の撮影場所になったのも、アメリカの保護監察のもとにある国ですからね。どんなにインディペンデントを標榜している映画でも、実はアメリカに保護されています。『アワーミュージック』では4ヶ国語が話されますが、カンヌで観客に見せるためには英語の字幕をつけなければならない。私は最初は拒否したんです。なぜ英語字幕なのでしょう。トルコ語の字幕では駄目なのでしょうか。トルコはEUの一員にもなるわけですしね。でも映画祭の事務局がどうしても英語字幕をつけろと譲らなかった。日本語字幕だっていいわけです。そうでしょう? 英語字幕をつけることで、人は映画そのものを見なくなってしまう。観客は字幕を読み、時々顔を上げて画面にブラッド・ピットがいるかどうか確認するわけですが、この映画にはブラッド・ピットはいないので、途方に暮れてしまうのです。
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